05/07/2026
『塩竈阿部勘』レポート その2
- 伊達綱村
この頃の塩竈はどんな町だったのでしょうか。当時の塩竈に大きく関わっているといわれる人物が、仙台藩4代目藩主の「伊達綱村」です。
1673年(延宝元年)「伊達綱村」は、「御舟入堀(おふないりぼり)」という塩竈湊から仙台城下をつなぐ運河を開通させます。
それにより、それまで塩竈で荷揚げして陸路で仙台まで運ばなければならなかった物流が、舟で仙台まで行けるようになりました。
そのため塩竈は、通過するだけの場所となってしまい、賑わいが失われていきました。
鹽竈神社への崇敬が篤かった伊達綱村は、その状況を憂い、塩竈に対して9箇条の特令を発令します。
これが「貞享の特令」、1685年(貞享2年)のとです。主な内容は以下の通りです。
* 塩竈への入港義務化: 米以外の海産物、材木、商人荷物を積んだ船は、必ず塩竈港に入港・荷揚げすることを義務付ける。
* 多額の金子下賜: 毎年250両(今の数千万円相当)を藩から塩竈の町に下賜した。
* 税の免除: 塩竈の人々に対する年貢の免除。
* 商業・流通の活性化: 仙台城下でも制限されていた馬の市や芝居の興行を塩竈で許可。
* 港の整備: 港湾施設や関連インフラの拡充。
そして1695年(元禄8年)、「伊達綱村」は、鹽竈神社の大改築に着手します。完成は、綱村隠居後の宝永元年(1704)ですが、これにより、現在まで続く鹽竈神社の社殿が完成しました。
こうして塩竈は活気を取り戻します。これ以降の塩竈は、港に出入りする船乗りに、鹽竈神社の参拝客に、歓楽街で遊興する観光客に、そして鹽竈神社に奉納するお酒の醸造地として、「たくさんお酒を消費する地」としても発展していきます。
鹽竈神社の新社殿完成から12年後に、「阿部勘九郎」さんは、「阿部勘酒造」を創業します。
当時の賑わいを伺い知れるのが、塩竈に伝わる民謡『塩釜甚句』です。
『塩釜甚句』は、1704年(宝永元年)の鹽竈神社新社殿の落成を祝って、伊達綱村が文人粋客らに歌謡を作らせ、これに当時海岸地方で流行していた「アイヤ節」の歌曲を変曲して、塩竈の芸妓に謡わしめたことに始まるといわれています。
歌詞の内容は、仙台藩内で唯一遊郭がある塩竈に通う旦那衆や遊女の、恋焦がれる心情を歌ったとされています。
この時代から明治初期までの阿部勘酒造の歴史は、昭和の火事で資料が焼失していることもあり、詳しくはわからないそうです。
様々な文化や人が行き交う物流の拠点として、新鮮な魚介が豊富に水揚げされる港町として、鹽竈神社参拝の観光客で賑わう宿場町として、遊興に耽る伊達者の集まる歓楽街として、豊かな食とお酒の文化が集う場所で、300年以上蔵を構え続けているという事実が、人々に愛され続けている「阿部勘酒造」の歴史を物語っているように感じるます。
「阿部勘酒造」の石数は、現在800石ほどだそうです。そのうち7〜8割を占める銘柄は『阿部勘』です。当店で扱わせていただいている銘柄も『阿部勘』だけですが、他に、『於茂多加(おもたか)男山』『四季の松島』という地元流通の銘柄もあります。
その中には、『阿部勘』にはないアル添酒もあるということですが、私個人的に、絶対めちゃくちゃ美味しいと思うので、いつか飲んでみたいと思っています。
「おもたか」とは、阿部家家紋の澤瀉(おもだか)紋に由来します。水田に自生する植物の葉をモチーフにした植物紋で、葉の形状が矢尻に似ているため「勝軍草(かちいくさぐさ)」と呼ばれ、戦国武将に好まれた縁起の良い「勝ち紋」として知られており、福島正則なども家紋に採用しています。
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